プロローグ

 ふとベッドサイドを見るともう昼の一時だった。

 寝床から這い出たのが確か正午前だったから、一時間近く携帯電話であてもなくネットサーフィンをしていたのだろう。食事をする気力もなんとなく湧かないままでいたが、流石に空腹に耐えられず落ち着かなくなっていることに気付いた。

 この前までの入院中もそうだが、急にやることがなくなったとしても、無為に時間を過ごすことで一応日は暮れるし昇る。都市に住環境のある人間は大体そうだろう。

 住処といっても、この部屋は臨時用の期限付きで貸し出されているだけではある。生活感のある場所といえば、散らかった寝具と昨日脱いだままの服、それと水回りくらいで、およそひととなりの分かるような部屋ではない。ホテルに長期滞在しているようなものだった。

 そんな誰の部屋でもないような場所による閉塞感と疎外感も、この薄っすらとした憂鬱の原因かもしれない。

 療養休暇は入院期間に対してかなり余裕があり、まだあと半月ほどあるが、これが終わったところで現職を退職するという話はもう済んでいる。この間に新しい仕事を探すべきだろう。実家に帰っても追い返されはしないだろうが、なんとなく面倒だという気持ちのほうが大きい。職探し、すべきことは見えているがそれでもどうにも、今日こそはと思えないまま病院の個室を出て一週間経ってしまったのだ。そもそも、治療のストレスや薬の副作用の可能性も頭にはあるのだが、どちらにせよ状況に変わりはない。

 重い身体をなんとか台所まで連れていき、昨日買ってきておいたロールパンを、スカスカで明るい冷蔵庫から出して温めた。あと炭酸飲料のペットボトルとかじる程度のチーズ、食パンの残り、それからフルーツ味のゼリーくらいしか中には無い。トースターのどこか心地よいノイズの中で、今日買い物に行くべきか少し悩んだ。

 料理は別に特段好きではないので、やる気がないのにわざわざやりたくはなかった。その調子でずっと、食堂に行かない時は部屋での軽い食事で済ませてしまう生活だった。

 食欲が満たされたことで、多少は身体に活力が戻るのを感じた。着替えながら今日は何をしようかとうろうろしていると、この楽しくない部屋の不愉快さに改めて気が付いた。やはりこの部屋のせいなのではないか、ここ一週間の体たらくは。

 本棚には大量生産の聖典、今はあまり興味の湧かない古典文学セレクション全三巻、十年以上前に出版された何か経済を論じているらしい本(ページを捲ってもよくわからなかった)、知らない作家のエッセイ集などが、少ない冊数で多くの関心を得ようとした痕跡があるだけの選書によって、場所を持て余したように備え付けられている。

 壁紙は時に暑苦しく感じられるような温かみのあるオレンジに近いベージュ、西側、入り口から見て右の奥の壁、腰の位置の継ぎ目に若干剥がれている部分がある。自宅の壁紙が剥がれているのは構わないし、気が向いた時にでもまた糊で貼れば良い。でも誰か今にとって感知できない時間によってこの剥がれが起こったという連想が、この嫌な疎外感を生んでいる。この部屋は自分の部屋ではないのだ。寝具だって、ソファのファブリックだって、これを使うという準備をした上でやってきたわけでは当然ない。

 急にいつものマグカップが恋しくなってきた。入院前の住居は寮だったが、急な入院だった上に誰かに頼むこともできず、荷物はまだ部屋に残ったままだった。休暇中に職場の敷地にある寮で過ごされるわけにはいかないということで、入院中にこの部屋を契約しておいてもらえた。すぐに新しい部屋を探すことを考えていたから、最低限の所持品以外まだこの仮住まいへは何も持ってきていないのだった。

 そうだ。新しい部屋だ。何を今まで一週間もしていたのだろう。急に目が覚めた気分になった。

 シャツの前ボタンを閉めないままノートパソコンをローテーブルに持ってきて、物件情報を調べた。しかしすぐにまた今までと似た倦怠感がやってきた。家賃は痛い出費だ。あまり不便なところには住みたくない。どこかを妥協するべきなのだが、仕事が見つかるかどうか、どんな仕事に就いてどんな生活を送れるのかまだ分からないのに、身の丈に合わない部屋を選んでしまう可能性の羅列しか出てこない。

 仕方ないので、次にすぐルームシェアの募集を探そうという発想に至った。寮生活だったためその選択肢は簡単に選べた。指がキーボードで音を立てるのと同時に、今度は一人で住んでみたいという小さな夢が、今は叶わないだろうという落胆へ変わった。

 田舎、郊外、学生が多いのだろうか、などと思ううちに、一つ気になるものがあった。

 玄関写真は少し古めかしい気もするが趣味は良いと思う。この募集を出している人物は既にここに住んでいるらしい。近隣施設の紹介もついでに載っていて、学生時代によく訪れたパン屋の新店舗がこの近くに出ているらしいことを知った。本店とは少し趣の違う店構えに見える。確かにこの辺りは旧街区だから、新街区の空を写しビルに溶けるような店舗では雰囲気が合わないだろう。もう辞めたようなものだが、現職に就いてからずっと食べていないような気がした。一度や二度はあったかもしれないが、懐かしさや恋しさに急に襲い掛かられて、なんだか他の募集を見る気にならなくなってしまった。

 「募集者」という漠然とした紹介欄を見るに同性、歳下だが同世代の自営業。上に歳が離れた人と住むのはやや気を遣う日々になるだろう。逆ということは自分が変に気を遣われる立場になるのかもしれないが、それが居心地の悪いことかどうかは相手がどんな性格かにもよるだろう。

 ひとまず、初めに部屋を見に行き募集者に会ってみるのはここにしてしまおうと思った。ウェブサイトの一ページに浮かぶこの曖昧な人物像を霧の中で探すようにしながら、表示されている番号に携帯から掛けた。コールを待つと、予想していた感じではない印象の人物が出た。どうやら募集は管理人に任せているらしい。

 日にちは、明日にでも、ということだった。