お久しぶりですの近況報告。小説・映画。愛。
近況報告
3月と4月の報告をサボってしまいました。
先月からなんか忙しくてSNSにいませんが普通に生きています。しばらく忙しい予感。
ご連絡や雑談があれば、ご存じの方は個人の連絡先、それかメールフォームまでどうぞ。来た連絡は見ますし返せないほどの多忙ではないです。遠慮なく。
先月今月くらいのことを以下書きました。3月のことは忘れた。
読んだ・観た作品
プロジェクト・ヘイル・メアリー
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』小説を読んで映画も観ました。
世間知らずなので小説読み始めた頃にその週末に映画公開ということを知りました。ワッペンシールもらえました。
小説おもしろかった。
映画もよかったけど、原作がよすぎているので、再現度というか、小説のよかった部分を味わえるかという意味では……。
ただ、映画は映画なので。見て楽しい作品にはなっていると思う。エンタメ度が上がっている。映像の美しさには文句ない。
すごく良かったけど小説が好きなあまりに微妙という気持ちもあった。
君のクイズ
『君のクイズ』読みました。
おもしろかった。クイズって…そうなんだ!! クイズがやりたくなる。今月映画公開されてるのでこれも観ようかな→観てきた。
装丁の赤青のデザインが好きだったので、映画ポスターなどのデザインに継承されていて嬉しかった。
積読チャンネルで紹介されてたので読んだ。
映画、よかったと思う。ミステリー要素控えめだった。テレビ。我々の人生。
原作を読むと、ウオオ! クイズやってみてえ! となったのだが、映画を観てその感想が出てくるかというと違うと思う。
積読チャンネルとゆるコンピュータ科学ラジオの視聴済み回をひたすら流しながら、ビーズでブレスレットとかキーホルダーとか作りまくっていた。長尺なのでありがたい。
映画でも流せばいいのに、映画観るならちゃんと見たいという気持ちがある。
あと、映画が観たいわけじゃなくてやりたいことはビーズで遊ぶということなので、本末転倒な事態は起こしたくない。
なにかと理由をつけて映画が観られない。
かわいいビーズを並べていると気分がよすぎてしまう。
百均と手芸屋さんでビーズを買いすぎて破産する。
クリマ行った
クリエーターズマーケットに初めて行った。
ポートメッセなごや(国際展示場。名古屋港への入口みたいな場所にある。レゴランドの隣)でやってるので、車で行くか~つって友だちに運転してもらって行こうとしたら、駐車場が満車で、見たところ高速出口から周辺一帯、ありえないくらい渋滞していた。完全に間違えた。公共交通機関で行こう!
臨時駐車場が開放されて最終的に停められたが、1時間どころではなくかかった気がする。
あおなみ線も名駅から規制があったとTwitterで見ました。GWなのもあり? むちゃくちゃ混んでいたらしい。
昼にやっと入れた会場内はコミティアのヤバい回ほど混んでなく、人は多いけど普通に見られるくらいでした。楽しかったです。また行きたいね。
ついでにプラダを着た悪魔2も観てきた。エンタメでした。「ブルベすぎる」
個人サイトwebオンリー・めぐる市
参加します。このサイトを見てくれたらな~という気持ちなので、ここで告知する意味はあんまりないですが。
サークルスペース画像も一応突貫工事で作ったので、参加される方はついでにそちらも見ていただけたらいいかなと思います。
開催日時:2026年6月6日(土)10:00~2026年6月7日(日)10:00
一般参加は無料で、ピクリエのアカウントが必要です。
参加はこちらから

愛の現在地
愛せる人
好きな人よりも深く愛せる人がいてほしいと思う、たとえ好きな人が自分のことを好きだったとしても、それよりも。
わたしは友だちのことを深く愛しているし友だちもわたしのことを多分同じような意味で愛してくれているけど、それと同じような仕方でまた別の深く愛せる人(深く愛したいような相手)が自分のことを深く愛してくれたらそれもいいことで、自分にとっては目指してみてもいいことだなと思う。それは自分の幸福度を上げる要素の一つだと思う。
そういう人に今すぐここにいてほしいというわけではなく、そんな人がこの世にいないなら妥協することなくそれでも生きていく覚悟は決めている。そうはいっても、そういう関係性になれる人がいつのまにか近くにいる状況になるには、少なくともその人と年単位で付き合っていく必要があると思う。だから、やる気と元気のあるうちに人付き合いの試行回数をチマチマ稼いでおくのは悪くないと思っている。バットを持たなければ当たらないのだ。元気ないとできないよこんなこと。
ところで、愛したままやっていけないことが判明することも普通にあるだろう。そして、愛しているからこそ最善の選択をすることを望み、それがお互いに離れることであっても、それは愛が壊れたことではないと思う。そういう愛はあり得るはずだ、経験したことはないながら。
一度は握った自分の手を離しても大丈夫というのは愛の一つの究極形ではないだろうか。なかなかそこまで至ることは難しいけど(好ましい人が一緒にいてくれることは嬉しいからだ)。
言いたいのは、人を愛しているということはそういう仕方で成立するパートナーシップにおける一つの基礎だが、少なくとも自分にとっては単にそれだけではなくて、もっと広く起こる現象ということだ。幸福と安寧を心から願うことが愛だとしたら、そういう意味では、見ず知らずの人のことも愛している。深くはなくとも。
幸せになるぞ
精神的な繋がりをもつことが自分の幸福に関わると思う。そういう相手が幸せであるとわかるとき、自分の生の価値を実感できる。自分が幸せになってもどうせ死ぬし仕方ないと思ってる部分があるが、愛している人の幸せに寄与することは無上の喜びになる。それは生きてる意味だと思う。
それはそれとして、わたしはあまり辛い思いをしたことなく、また大きな不自由もなく生きられていてありがたいが、そういうこともありまあまあ幸せでやらせてもらっているほうだと思う。というか、何か非常に辛いことがあっても、まあ大丈夫くらいの健全性を育める環境で生きてこられたということだと思う(そういう環境の要因に感謝している)。
その上で、生まれてしまっている以上は自分の生に究極的に肯定的になるという意味で究極の幸福を目指したい。
幸福であることは様々なリソースについて効率的でもあると信じているからという部分がわりとある。自分が幸福なほうが、愛している人もより幸福になると思う。そういう利他主義的な意味で、これ以上幸せになりたいのかと言われたら、かなりなりたい。幸福に生きられたほうが無駄にしなくて済むものは多そう。
ここまでは人を愛したいという話だった。愛している相手がいるからこそ自分が肯定される。だけれども、冒頭で少し触れたように、愛されたいというのだって本当だ。そういう幸福だって得たい。
日頃よりご愛顧いただきまして誠にありがとうございます。
コツ
深く愛せる相手に限って探したいとき、趣味の話とか延々としていても仕方ないので、初手から人生の話を始めてみるべき(真面目な人向けマチアプのコツ)。
やりたいことが何なのか、よくよく思い出してみる。わたしなら、その人が自分にとって潜在的に深く愛せる人間なのかどうか見極めたいという一点だ。
もちろん、相手に何かを問い質すのではなくて、自分を晒してこそそれは見極められることだと思う。自分もチェックされなければならない。これはフェアネスでもあるし、相手にとっても自分は負担でないか、大丈夫かどうかということもまた自分にとって必要、ということだ。お互いに噛み合うかどうかというのも、現実的には必要な、確認すべき指標だろう。
だからといって直球で脈絡なく、これについてどう思いますか? というのはやはり正解を出してほしいとかテストしてるみたいな感じになってよくないから、そこはコミュニケーションをうまくやろうという範疇の話だと思う。あくまで、見極めることが可能な話題を選びたいねということ。
ただ、いろいろな人と話すうちに自分にいいやり方というのは見つかりそう。自分のリソース管理によく気を付けるということを守れば好きにやるのがいいし。
いま、趣味の話をしててもしゃーないみたいなことを書いた。しかしめったにいないレベルで趣味の合う人と話せるのはそれはそれですごく楽しい。なかなか出会う機会はないから。
ただ、その話が長く続くとは限らないのが身近な知り合いとは違うところだ。身近な知り合いの人間性はソイツと長く付き合う中で、趣味の話をしている以外の場面で知ることになる。信頼できない人のことはすぐに検知できたとしても、信頼に足る人であると判断を下すには長く付き合うことがわりと必要だと思う。
それにもかかわらず、そもそも長く付き合えるとも限らないという度合いが極端に高い関係を生むばかりの場所がそこであるなら、さっさと人間性のチェックをし合う方向に舵を切れたらそうするのがいいと思う。駄弁ってるうちに自然と縁が切れるのを待つようなことはもったいないと思う。
ところで、話が続かないというのはどちらかにとって何か合わないものを感じた場合にも、ただタイミングが悪かったという場合にも起こると思う。必ずしも前者ばかりではなさそうな感じがある。そういう点でも、有効だったかもしれない機会をタイミングの悪さで逃すのは時間がもったいないなと思う。
Exp
自分は、浅い段階で他人との壁を作ることが多いかもしれない、極端ではないにせよ。そういう人間が日常生活で心を開ける人間に出会うということは多少難しい。そもそも難しいことではあると思うので、分布の中でどの程度の難しさに位置しているかはわからないものの。とにかくそれがなぜかというと、その時点ではまだ興味のわかない他人と交流するということを嫌っていると、そういう人が潜在的にいたとしても何かが始まるということはまずないからだ(向こうからやってこない限り)。
友だちがちょっぴりだけいるけど、彼らは本当に自分が心を開ける相手なのであって、それが判明するまで何らかの理由で付き合いを続けられた人たちだ。自分が相手に強く興味をもったというそれだけでは多分自分の性質からして続かなくて、恐らく、なんかいろいろタイミングとかが良かったのかと思う。
こんな感じで、人付き合いは別にそこまで嫌いじゃないがやる気がないという場合、人付き合いをすることが目的の場所に身を置いてみるというのは一つのやり方だと思った。というかだいたい、向いてないようには思うものの。
それでも、限られた人としか交流しない人間にとっては、わりと経験値稼ぎにはなる。まあまあ穏便にやれてきていると思う。
やりとりした人とのことで凹むこともいくらか既に経験したが、寝たら治ったしそんなに悪いことではなかったなと思う。メンタルが靭やかになってくる。踏みにじられて強くなる(そんな滅多なことをされたわけではないが)。世界が広いことがわかる。
フィルターのロジック
自分とやっていける人とやっていきたい、というのは考えれば当たり前だと思うが、フィルターとして機能させるとわりと狭い通り道だ。そして、自分とはうまくやっていけないような人を好きになったり愛したりするとき、そのパートナーシップが最終的にうまくいかないというのは自明だ。だから、そういうフィルターのロジックをできる限り解剖してみるということは重要だと思う。
自分のそのフィルターというのがどんなものか? 恋愛感情に関しては言語化しきることは難しそうという印象だが、どんな人を深く愛したいかはわりと言いようがあることだと思う。それは信念だ。
生きる姿勢や思想といった、自分が尊重したいと思えるものを備えている人。その性質について善悪を評価したいのではなく、一致しているかを見たいということだ(ただ、自分は善であるということを大切に思っている)。
価値観を尊重なんていうのはウソである。尊重できない価値観は多分、誰にだってあるんじゃないか(まあ、他人のことはわからないので、それでやっていける人たちもいるのかもしれない)。譲ることのできない信念を曲げずに済む人間かどうかという視点は必要だろう。
その視点はなんというか、その人が愛の対象か考えるためのものであったとしても、それよりもむしろ多少狭く、親しい人間(友人もパートナーも)との関係性が成り立つか考えるのに必要なものだと思う。そして多分、その視点を常に持って頭を働かせて考えているわけではなくて、拒否感とか安心感とかいった感情で直観的に自分自身から知っているのだと思う。
がんばろう
前述の通り、自分が幸福であることがいろいろな意味でひとまずはよい帰結を生むのだから、目指さないことはないはずだと自分については考える。そうでなくても、一般的に言って幸福は人生の勝利条件だと思う。
幸福に対する利他主義的な指向は、結局は自分の生の肯定のためなのだが、それで身の回りがうまく回るならそうしたほうがいいと一旦は思う。現世利益。目的地を設定されたナビのようなもので、なぜという問題はナビには解決できなくとも、そういう仕組みが始めから備わっていて、それなしではものが考えられない。
それに意味があるかどうか(なぜ)を考えざるを得ないこともまた仕方ないことで、考えること自体、意味があったりもなかったりもすると思う。
この言い方は、どこで考えるのをやめるかという話に見える。自分の生がよいものでも死んだら意味ないのか、そうだとしても周りの人に幸福を残すならいいのか、だとしてもその人もいつか死ぬから意味ないのか、そうだとしても?
個人的にヌルヌルネリネリ生きていくうえでは、こうやってある程度の段階で保留してしまって、騙し騙しやっていくしかないと思う。そもそも、足が沈んで竦む底なしの沼の上、我々は歩き続けることを余儀なくされている。
自分の気分がいいことがなぜいいことなのか、根拠を求めることを敢えてしないというよりも、それらしいことを言っておいてそれに則ってみるというやり方で、今は大丈夫そう。心身が健康なあいだは少なくとも。
全ての愛している人の幸福を願うということは、眠れない夜も過ぎるのを待って、生活に立ち戻った中でこそできることなのだと思う。
たくさん書きました。
読んでいただいてありがとうございました。来月もこんなに書くかはよくわかりません。
今月の写真は別記事に切り分けることにしました(かさばるので)。
次の記事がそれです。よければ見てね。
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また来月!

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